
中井シゲノの人柄と実力を知るには秀逸だと思います
「神と人のはざまに生きる」のあとがきなんですが、中井シゲノさんについての「まとめ」のような雰囲気で秀逸でした。アンヌブッシィは中井シゲノについて一番詳しいひとなので、実際に読んでみると当時の中井シゲノさんの雰囲気をつかみやすいと思います。
あとがきにかえて。という一文から始まります。
あとがきにかえて
本書のなかで語られていることはフィクションでなければ小説風に潤色した物語でもない。それは中井シゲノというひとりの女性の一生についての話しであり、私はまさに彼女の打ち明けたとおりに、その言葉遣いもなるべくそのまま伝えるよう心掛けた。それはまた日本における憑依現象に歩み寄ろうとする私の研究のひとつでもあるが、この道程において中井シゲノとの出会いは私にとっては決定的なものであった。
稲荷信仰のオダイに会いたかった
一九八三年九月三日、初めて大阪に中井シゲノを訪ねたころ、私は一年来、関西の稲荷信仰を支える宗教職能者であるオダイの問題に取り組んでいた。
私は当時、日本宗教民俗学研究所の研究員のひとりであったが、その一団は、稲荷信仰にまつわる諸現象の全体像についての共同研究をまとめてもらいたいと、岡山県にある妙教寺(日蓮宗)から依頼を受けていた。妙教寺はまた「最上稲荷」とも称されるが、それはこの寺において稲荷神に対する信仰が非常に栄えたためである。同寺は、その稲荷信仰の系譜を明らかにし、それによって寺の歴史および現組織の礎となった神仏習合という事実を正しく裏付けたいと望んでいた。五来重教授の指導のもと、私たち一四人は、広大な諸題目ー稲荷信仰と仏教、稲荷信仰と古墳、稲荷信仰と福神、屋敷神と稲荷、禅宗寺院と稲荷信仰、稲荷信仰と山の神・野神、狐と稲荷信仰、稲荷の口誦伝承、丹波地方における稲荷信仰、最上稲荷と妙教寺、稲荷信仰と巫覡ーーの中の一分野を各自担当することになった。
オダイとの接触は簡単ではなかった
日本に暮らしはじめ、民族宗教、修験道や民間宗教職能者について研究するようになってから、11年経っていた私には、稲荷信仰における巫覡すなわちオダイおよび憑依の事象という問題がまわってきた。オダイと接触する術を見出すのは易しいことではなかったが、一年半のうちに私は男女のオダイと数多く知り合う機会に恵まれた。それまでは、この主題に関して関西の大都会を中心とした体系的な調査はおこなわれておらず、巫覡の稲荷信仰がこれだけ活発であることは、驚くべき事実であった。
中井シゲノは頭抜けていた。
そうして出会った多くのオダイのなかでも、中井シゲノは頭抜けていた。他のオダイたちもあたたかく私を迎えてくれ、身の上話に加えて、私のたたみかける質問にもつねに快く答えてくれたが、彼女は、その人となりにしても、その運命にしても、オダイの自己実現という点においても格別の器を具えていた。それは伏見稲荷大社の神官からすでに伺っていたことでもあった。「一人だけ名前をお教えしましょう。中井シゲノという人です。彼女に会えれば、他のオダイに会うには及ばないでしょう。特別な方なのです。いまや、彼女のようなオダイはもうおりません。」
はじめて中井シゲノに会ったとき
はじめて中井シゲノに会ったとき、私が訪問した意図を述べると、彼女は声高らかに言った。
「苦労気苦労なら山のように仰山ございますよ。実のところ、五、六年前から、私自身も「ああ、誰かこうしたことすべてを本に書いてくれたらなあ」と、終始そんなことを思っていたのです。ですがそうしたことをすべて語る暇など私にはございませんでした。食べる暇もほとんどないくらいでしたらから。今年も後数日で、玉姫さんのもとでの生活も50周年を迎えます。
これからあなたにお話しすることは、どれひとつとして本で読んだものではありません。そもそも私は読書などできないのですから。それに私は自分自身からは何も存じません。お気に召すときに神さまが私の口を通してお告げなさって、私の口はおのずから開くのです。私が口を利き、知っておりますのはそのことだけです。なんと残念なことでしょう。昔にテープレコーダーかカメラでもあれば、ああしたお告げ、あるいはみんなが部屋に集って跳び上がっているさまなどもすべて残しておけたことでしょうに。本当に、あなたがそれについて本を著してくださるとは嬉しい限りです。」
中井シゲノの記憶は鮮明で素晴らしかった
当初から彼女はあらん限りの協力を注いでくれた。彼女の記憶は鮮明で素晴らしかった。どのような話題に及んでも彼女は何時間も話し続け、しかも決して抽象的になることなく、いつも彼女自身の体験に基づき、彼女の感じたことに根ざした話をするのだった。彼女はユーモアのセンスに長け、どっと笑いが木霊(こだま)することもしばしばであった。それから、おそらくは視覚の欠落を長らく聴覚によって埋め合わせてきたためであろう、彼女は擬音語の宝庫から色々な音声を汲み取って、多種多様な場面を鮮やかに思い浮かばせるのだった。彼女はまた味わい深い大阪弁をものしたが、それをフランス語に移すことは不可能な業である。その独特の語尾は文と文とを滑らかに延々とつなげ、否定するにももの柔らかで、第二音節に落ちるアクセントは言葉を歌わしめていた。彼女の傍らに座していると、彼女が眼の見えない人であるという印象は些か(いささ)も無かった。初回に引き続き、すぐに私たちは面会を重ねた。というのも、彼女の話がたいへん充実したものであったため、いったん書き留めた事柄が明らかになるかと思うとまた新たな疑問が湧いてくるからであった。
彼女の応対ぶりは毎回変わらず、あたたかなものだった。彼女は誰に対してもそのようであった。私が異国の生まれであるということを彼女が暗にでも仄めかしたことは一度たりともなかった。ただ私が彼女のもとを訪れたその理由だけが大事だったのであり、これに対して彼女は一身をもって応じてくれた。彼女はできるだけ明瞭に語り伝えるよう心を尽くしてくれた。
「ほんとに本になるのでしょうか」
仕事が進捗していくにつれて、彼女は不安を洩らした。
「すべてお話ししますけれども、ほんとに本になるのでしょうか」と彼女は笑いまじりに言った。「私の話しておりますこうした不思議なことのすべて、こうしたことはもしかすると私の自画自賛のように聞こえるかもしれません。私のために証言できるような人はもう誰もおりません。そうしたことを目にした人達はみな今やもう100歳を超えておられるでしょうし、皆亡くなってしまいました。」
シゲノをはじめ他のオダイ達の教示のおかげで、私は自分に任された仕事を首尾よくし果たせた。私はあらゆる問題について、ほんの第一段階とみなしていた点に絞って叙述したが、そうすることによってこの複雑な現実の全体像を捉えることができると確信していた。
1983年に研究発表
一九八三年、第三五回日本民俗学会の年次大会において、私たち一団は各自の研究発表をした。一九八五年にはそれが970ページから成る一巻の書物となって出版された。(五来重教授監修「稲荷信仰の研究」)
フランスでは、モンゴル・シベリア研究所が一九八四年の紀要の特集号を狐の研究に充てた。私もそこに日本における狐と憑依に関する論文を寄せた。
第一部ここまで
「神と人のはざまに生きる」のあとがき第一部のまとめ

- 中井シゲノさんの人柄を少しでも知ってもらいたい
- 新興宗教の教祖というイメージが少しでも変わったら良い
- 著書のアンヌブッシィという人も偉大です。
戦時中から敗戦後の混乱期の困難を乗り越えながら生き抜いた感じが強い人じゃないかなー、と感じます。
新興宗教の教祖という妙なイメージが払拭されたら良い気がします。